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2008. 05. 07-12  大峰奥駈 

 


連休明けは鹿島槍を計画していたが、北アルプスなら来年でも行けるだろうが、大峰奥駈は元気なうちでないと無理かと考え、急遽予定を変更する。5/6に出発することにし、食糧の買い出しもしたが、なんとなく調査不足の感があり、どうも気が進まず、一日遅らせることにした。もう一日調べてみて、いくつか大切なことに気がついたので、遅らせたのは正解だった。元気な若者は4泊5日で歩くようであるが、前期高齢者としては余裕をもって楽しみたいので5泊6日とした。そして、弥山小屋と玉置神社に泊まることにして、自炊の単調さを回避することにした。6-7日分の食糧を、ある程度変化を持たせてと考えていると、かなりの量になった。無人小屋がたくさんあるのでそれらを利用し、テントを持って行くことを断念する。結果的には、これらの選択も正解だった。

同行: 単独



2008. 5. 7 吉野から小笹ノ宿まで


コースタイム

0903 奥千本口BS、0925 青根ヶ峰(858b)、1055-1117 四寸岩山(1236b)、1221 二蔵宿、1305-15 水場で休憩、1403-17 五番関、1643-57 西ノ覗岩、1711-24 山上ヶ岳(1719b)、1801 小笹ノ宿(同宿2人)

近鉄吉野駅で、大きな荷物を持った若者(京都の人であることが後に分かる)が同時に下車したが、ケーブルやバスに乗らず、すごい速度で歩き始めた。こちらは、まだ予約できていない玉置神社に電話をすると、FAXでないと受け付けないという。家から必要事項を伝えてもらうように依頼する。ケーブルに乗って上の駅でトイレに行ってから、バスを出るのを待っていると、若者が通り過ぎていった。奥千本までは歩いたことがあるし、先は長いので、こちらはバスに乗って奥千本まで行き、そこからのスタートとする。

青根ヶ峰の頂上を踏んでおく。林道に出たり入ったりした後、正面に見えてきた四寸岩山へと足を進める。紫色のスミレが沢山咲いており、その後もずっと色々な種類のスミレが山道を彩っていた。「なにやらゆかし」と詠んだ芭蕉の力量に、今更ながら感心する。ツバキやムラサキヤシオの落花もちらほらと見かける。モノレールが設置されている脇を、250bほど登り続けてやっと傾斜がゆるむ。そこからほどなくして四寸岩山に着く。これから進む山上ヶ岳と弥山の間に大天井岳が裾を広げている、大天井岳のすぐ左後に稲村ヶ岳が頭を覗かせており、右後には弥山や頂仙岳が見えている。この日の目的地は山上ヶ岳より先であり、随分遠く感じられる。西の方もかなり見えており、和歌山との県境尾根なども多分見えているのであろう。それらを見ながら食事をしていると、すぐそばの林道からという軽装の人が上がってきたので、少し話をする。


足摺ノ宿を過ぎると、つぎは清潔そうな二蔵宿がある。大天井ヶ岳への登り口であるが、時間が余りないので、楽な巻道を選ぶ。巻道には沢の水があるという楽しみもある。期待していた通りの美味であった。頭を冷やしたり、おやつを食べながら休む。そのあとも、五番関まではかなりの時間がかかり、結局、全部で1:30ほどの歩きとなる。それでも頂上を経由するコースタイムより30分ほど短縮できた。五番関についてザックを下ろすと、何だか疲れがどっと出たので、これで小笹まで行けるのかと心配になる。結果的には、6日間の中で、もっとも疲労感を感じたところであった。

気を取り直し、時代錯誤と悪評高い「女人結界門」をくぐって、少し登ったあとは、気楽な道となる。ミヤマカタバミ、オオカメノキ、白いスミレなどが目につく。五番関から山上ヶ岳までは500mほどの高度を稼ぐのであるが、勾配は比較的なだらかだし、色々と風景に変化があるので疲れない。道脇にごく僅かの残雪があった。人がいない閑散とした洞辻茶屋、ダラスケ茶屋を過ぎると、大きな鐘掛岩が見えてくる。西ノ覗岩も行ってみたが、たしかに足だけ押さえられて、上半身を乗り出すと、かなりの肝試しになるだろうと想像できる。誰もいない夕方だったので、一人で身を乗り出す気にはなれなかった。ずっと先には洞川の集落が見えている。宿坊群を通り抜けると、蔵王権現像を祀っている本堂があり、そのすぐそばに頂上がある。ホラ貝の音が聞こえてきた。本堂のそばで、若い僧侶が練習しているのである。なかなか難しいようであった。


そこから小笹ノ宿までは、いくつかのピークを越えて行くが、実際はすべて巻道になっており、緩やかな下りだけで歩ける。口の中が乾き、舌がピタッと周りにくっついてしまう。ツェルマットから登っていったときに経験したものである。慌てて水とキャラメルを口に入れてなんとかごまかす。小笹ノ宿は、稜線上にあるというのに、周辺に豊かな水が流れており、信じられないような別天地である。テントが一つ張ってあり、気分がよさそうであるが、こちらは残念ながら小屋泊まりである。誰もいない。18:00になっていたので、すぐに米を研ぎ、食事の準備にかかる。生卵を持ってきているので、それを入れたカレーを作る。やがて、例の京都の若者がやってきた。大天井ヶ岳を越えてきたという。この日は到着が遅かったので、シュラフに入ったのも20:00頃となった。




金峯山寺の黒門が見えてきた




金峯神社




青根ヶ峰

 


高山の奧は観音峰や頂仙岳か?




送電線から四寸岩山




四寸岩山からこれから進む南の山々を望む




足摺の宿


二蔵宿



巻道の途中の水場

 


五番関


新緑の芽生え


洞辻茶屋の蔵王権現




洞辻茶屋
 


ダラスケ茶屋




鐘掛岩
 


山上ヶ岳の領域に入ってくる


西の覗
 


山上ヶ岳の宿坊群




山頂は立ち入れないが脇に三角点

 


法螺貝の練習をしている若者




小笹宿

 


小笹宿のすぐそばに水場



2008. 5. 8 小笹ノ宿から弥山まで


コースタイム

0622 小笹ノ宿、0706 脇ノ宿跡、0758 小普賢岳、0808-30 大普賢岳(1780b)、0915 国見岳(1655b)直下、0933-38 稚児泊、1010-18 七曜岳(シチヨウダケ;1584b)、1122-1200 行者還岳(1546b)、1224 行者還ノ宿、1229 天川辻、1336-53 休憩、1357 一ノ垰、1440 石休宿址、1452 弁天の森、1526 聖宝ノ宿趾、1620 弥山(1895b)(同宿2人)

朝起きるとどうも様子がおかしい。二人の間にもう一つモソモソと動くシュラフがあった。後で聞くと神戸の若者らしいが、昼に吉野を出発して、21:30頃に到着したという。そして、こちらがモソモソしている間に、朝食もとらずに出発していった。歩きながら食べるという。登山が主目的ではないらしい。こちらは、弥山までと短縮コースなので、ゆっくりと朝食をとる。残りご飯に餅を入れ、色々と具を加えた雑炊のようなものにした。

出発して、少しだけ登り坂であるが、日本庭園を歩いているようで、なんとも気分のよい道である。比較的細い木が多く、地面は苔むしている。阿弥陀ヶ森で右折すると、少し森が深くなり、雰囲気が変わる。トウヒやシラビソの森を気持ちよく下っていく。風の音と鳥の声だけが聞こえる。うっすらと日も射すが、前日ほどの展望は得られない。やがて正面に小普賢岳と大普賢岳の切り立った岩が見えるようになる。登り始める所で、シャクナゲの固い蕾をみた。表示板がなければ分からなかっただろう小普賢岳(北)から10分ほどで大普賢岳に着く。マンサクが咲いている。ゆったりしたスケジュールにしたお陰で、ここでもゆっくりと休憩をとることができる。霞んではいるが、展望もそれなりに楽しめる。西北の稲村ヶ岳、大日山にはじまり、山上ヶ岳、竜ヶ岳、小普賢岳、阿弥陀ヶ森、東には大台ヶ原の一帯、南にはこれから歩く行者還岳、弥山、八経ヶ岳、仏生ヶ岳、孔雀岳などが延々と伸びている。釈迦ヶ岳が見えるとしている人が多いが、仏生ヶ岳の陰で見えていないのではないだろうか。

下りはじめると、すぐ左手に水太覗がある。そこからさらに水太谷から天瀬川への斜面が続いているが、逆方向に新緑が萌え上がってきている気配である。小笹ノ宿でテントを張っていた田辺の人が話題にしていた新宮山彦グループの3人とすれ違う。国見岳はピークを踏まずに西側を巻いている。鎖場の上で後を振り返ると、大普賢岳から小普賢岳(東)、日本岳へといくつもの突起が延びている。鎖を下りると稚児泊である。水はないが、テントを張ると気持ちがよさそうである。ブナが目立つようになる。その後「ここは地形図の国見岳とはちがいます」という、意味不明瞭な標識を通り過ぎると、七曜岳である。360°というわけにはいかないが、木々の間から、大普賢の東の尾根や行者還岳・弥山方向が見える。


少し暑くなってきたので、頭にタオルを巻く。このあとも気持ちのよい尾根歩きが続く。少し新緑がこの辺りにも進出してきている。この日が6日のうちで、最も気分のよい山道であった。慰霊碑があり、1965年5月に大阪工業大学の山岳部員が悪天候で疲労死したとある。あの頃は装備も重く、大変だったに違いない。行者還岳も頂上を巻く道があるが、ここは頂上へ登っておく。頂上には、朝に先にでた神戸の若者がおり、昼食を終えたところだった。こちらもバーナーを取り出して、昼食とする。若者は北の方へ下りていった。行くべきは南なのにと不思議だった。25000分の1には南へ下りる道が描かれているが、やはり南には道はなく、登り口まで戻らねばならなかった。

巻道の途中で、ホースから水が出ていた。どうして集めているのか分からないが、どなたかのこのような努力がなければ、水は地面に吸い込まれてしまうだけだろう。天川辻の手前の行者還ノ宿は、新築されたばかりの立派なものである。ここから一ノ垰まではなだらかな笹尾根の上り下りで、コバイケイソウの集落が増えてくる。湿地帯にあるのが普通なのに、このような尾根に多いのは意外である。オオカメノキ、ムラサキヤシオなどもある。ミヤマカタバミ、スミレのほか、黄色い小さな花があったが、名前は分からない。あれほど遠かった弥山も射程距離に入ってきた。一ノ垰の手前に気持ちのよい木陰があったので一休みする。このあと、弥山の頂上までの間では、トンネルから登ってきた日帰りのハイカー数組と出会う。聖宝ノ宿趾までが、意外に遠く感じた。そこからの最後の登りも階段などが続いており、かなりのものである。この日はこれを登れば終わりなので、どうということはないが、もし楊子ヶ宿まで足を伸ばすとすれば、大変なことだと考える。全行程を6日に設定したことでよかった。

小屋について、泊まれるかと聞くと、それは問題ないが、食事は予約がないので出せないという。食事に変化をつけるために泊まることにしたのに、残念である。結局朝食も頼まず、布団に寝ることだけで、5500円を払う。テントがあればよいのだが、軽くするためなので仕方がない。ビールがあったので飲んだ。冷え方が不十分だったせいか、今ひとつ感激がなかった。なにはともあれお参りをしておこうと頂上まで行く。社殿を改造する人夫が沢山おり、手を合わせると彼らを崇めているようなので、神社の裏手に回る。低い所に大変な数の倒木があり、その背後には、稲村、山上、竜、阿弥陀、普賢、行者などの峰々の頭が並んでいる。ネットにここからの展望のことを書いている記事が見つからないので、穴場なのかもしれない。7年前に天川川合から弥山に登ったことがあるが、鹿がのんびりと草をはんでいたその時に比べ、かなり開けた感じになっている。小屋に戻ると、例の神戸の若者がいた。ここが最終目的で、今日中に下るという。食事がでないので誤算だという話をしていると、食糧が余っているので、置いていきますかという。多分足りると思うが、予備食として、博多トンコツラーメンを一束貰っておく。この日はサバのみそ煮を食べたが、もう一つ感心しない。よく使うウナギの方がよい。広い部屋に3人が寝る。あとの人も翌日すぐ下るらしい。前鬼や天ヶ瀬からのバスの時刻が掲示されていたので、念のためと控えておいた。多少弱気になっていたからか。この日は、これまでにないほど、肩が凝ったので、よく揉みほぐしてからシュラフに入る。





阿弥陀ヶ森



大普賢岳




小普賢岳

 


大普賢岳へ




大普賢岳山頂
 


大普賢岳から山上ヶ岳・竜ヶ岳


大普賢岳から稲村ヶ岳・大日山

 


水太覗から新緑の天瀬川



鎖場の上から大普賢と東小普賢

 


稚児泊



稲村ヶ岳

 


七曜岳から大普賢岳・小普賢岳



七曜岳から行者還岳・弥山



ここにも新緑が



行者還岳の山頂でくつろぐ神戸の若者

 


行者還宿




遠い弥山
 


コバイケイソウの群落



コミヤマカタバミ



一ノ垰

 


奧駆道には不似合いな色の弁天の森標識




聖法の宿跡



弥山の天河奥宮

 


弥山小屋




神社裏の倒木群と稲村ヶ岳・山上ヶ岳・竜ヶ岳・阿弥陀ヶ森・大普賢岳の大展望



2008. 5. 9 弥山から深仙ノ宿まで


コースタイム

0555 弥山小屋、0618-22 八経ヶ岳(1915b)、0743-53 休憩、0815 舟ノ垰、0848-0933 楊子ヶ宿、1048-1102 鳥の水、1110 孔雀岳(1779b)、1158-1209 橡の鼻、1258-1310 釈迦ヶ岳(1800b)、1350-1548 深仙の宿、1612-16 大日岳(1568b)、1639 深仙の宿(同宿0人)

この日もよく寝た。目覚ましをかけないといつまでも寝ていそうである。次の泊まりは深仙の宿以外の選択はないので、ゆっくりでよい。4:30に起きて、6時前に出立する。ザックの胸のバンドをできるだけはずし、時々肩の運動をしながら歩くことにする。これで、肩の凝りは回避できた。八経ヶ岳の登りで初めてで最後の残雪を踏む。この辺り鹿が多いのであろう、獣の臭いがムンムンしている。

八経ヶ岳の頂上から見る北側は、弥山とほぼ同じであるが、稲村岳は弥山に隠れて見えなくなっているように思う。白山書房の「100名山パノラマ案内」には見えると書いてあるので、なにか勘違いしているのであろうか。このような本には、1年に1度見えるかどうかというような遠方の山のことは熱心に書いておられるが、すぐ手前の山の同定を見ることが少ない。そのような山をしっかりと教えて欲しいのにと思う。南側には、楊枝ヶ森、仏生ヶ岳、釈迦ヶ岳が、そしてその右奥には玉置山も見えているようである。

栃尾辻への道を分けるとすぐに明星ヶ岳であるが、頂上には道がついておらず、すぐ下を巻いている。このあとは大した上下のない道が楊子ノ宿まで続く。楊子ノ宿まで歩きながら、この3時間を前日のうちに歩くとすれば大変だったろうなと考えていた。舟ノ垰の手前に気持ちのよい所があったので休む。この辺りもコバイケイソウが群れをなしている。それほど好きな花ではないが、これだけあるとどれだけ見事なものかと想像がかき立てられる。楊子ヶ宿にある山小屋も立派なものである。ここで、ストーブを取り出して、中食とする。ヨーカンを使って汁粉を作り、クラッカーとチーズを食べる。

薄日も差し始める中、この日はじめての登りらしい登りで仏生ヶ岳に向かう。ここも巻道となっている。孔雀岳の手前に、楽しみにしていた「鳥の水」があったので、また休憩する。頭や腕を洗って、さっぱりする。よい味がしたのでペットボトルにも入れておく。今回はどこでも水に不自由しなかった。万一のことを考えても、いつも大体1.5リットル程度を担ぐだけで不安はなかった。孔雀岳を越えると孔雀覗があり、東側の谷に多くの奇岩があるのが見える。道もなんとなく、大峰らしい深い感じが出はじめる。この日唯一の登山者とすれ違う。全山縦走ではないと言っていたが、かなり大きなザックを背負っていた。

釈迦ヶ岳が見上げるような近さに迫ってきたとき、足下にピンクのオオミネコザクラが一輪だけ咲いていた。実に鮮やかな色合いである。橡の鼻で少し周りの景色を見回し、いざ出発しようとするとヒカゲツツジとオオミネコザクラが目についた。はじめキバナシャクナゲかと思っていたが、それは中部以北の2500m以上の高所にしか咲かないので、間違っていた。ヒカゲツツジはここだけ、オオミネコザクラも少し前とここの2個所だけの貴重な瞬間であった。
その後、50分ほどで釈迦如来の立つ頂上となる。強力が1人で担ぎ上げたという。何kgあるのか知らないがすごい力持ちである。大きな岩壁の七面山、八経ヶ岳、仏生ヶ岳から、南も笠捨山もなんとか見えている。なんの音もしない、穏やかな頂上でのひとときだった。

西に下りた所に水場があるとのことだったが、見つからなかった。深仙の宿に下るにつれ、ムラサキヤシオが多くなり、宿のそばにも数多くの花が咲いていた。山小屋の近くには灌頂堂というお堂があり、そちらの方は最近にできたものできれいだった。田辺の人がそちらに泊めて貰えばよいと盛んに勧めてくれたが、やはり無信仰のものにとっては落ち着かないので、汚い山小屋に泊まる。外見が汚いだけで、中はなにも不都合はない。すぐそばに香精水という水場があるので、水を汲みに行く。大きな岩壁が何枚もある所で、いかにも修行に向いていそうな雰囲気である。水はポタポタと落ちているだけであるが、ペットボトルのようなもので受けており、500 ccくらいは新鮮なものがすぐに手に入る。それ以外はその下の水槽に貯まるようになっている。底に落葉が積もっているが、水そのものはきれいので、煮炊きする分として、宿にあった2Lのペットボトルに汲んで帰る。

早く着いたので、大日岳を往復しておく。すごい一枚岩を鎖だけを頼りに登るとあったが、そんなものは目に入らず、普通の山道を少し厳しくした程度の道をよじ登って頂上に達する。往復40分足らずの散歩であった。東側の斜面にガスが出はじめたが、西側の斜面は明るい感じである。用を足していると、2頭の鹿が鋭い声を立てて、逃げていった。ワチガイソウが咲いていた。小屋の外で食事をする。食事が終わる頃、ガスが本格的に押し寄せてきて、大日岳も見えなくなる。天気予報では、この日と翌日の降水確率が50%となっていた。この日は、雨に降られなかったので助かったが、明日は悪くなるだろうと観念する。平治止まりにするか、行仙まで行くかを迷っていたが、雨ならば道がはかどるだろうから、行仙まで頑張ることに決める。最後の夜の玉置神社到着が遅くなると迷惑がかかるので、その点からも都合がよいだろう。夜中に目が覚めると、雨が屋根をたたく音がしていた。





八経ヶ岳へ

 


八経ヶ岳山頂

 


八経ヶ岳から仏生ヶ岳・釈迦ヶ岳など
 
7

シラベの森



舟ノ垰の北で一休み




コバイケイソウの群落



楊子ヶ宿

 


孔雀岳か




鳥の水(写真中央のパイプ)




大峰らしい雰囲気に




孔雀覗

 


釈迦ヶ岳を見上げる




七面山と八経ヶ岳

 


釈迦ヶ岳山頂の釈迦如来像




弥山・仏生ヶ岳・孔雀岳

 


大日岳から笠捨山への山並み


 

ムラサキヤシオと大日岳



深仙の宿



深仙の宿のそばの大岩壁



香精水



大日岳山頂

 


大日岳から釈迦ヶ岳(深仙宿が小さく見える)


2008. 5. 10 深仙ノ宿から行仙ノ宿まで


コースタイム

0522 深仙の宿、0622 石楠花岳(1472b)、0642 天狗山(1537b)、0659 奥守岳、0734 地蔵岳(子守岳;1464b)、0812 滝川辻、0830-42 休憩、0905 涅槃岳(1376b)、0927-30 証誠無漏岳(1301b)、1000 阿須迦利岳(1251b)、1020-1115 持経の宿、1210 平治の宿、1236 転法輪岳(1281b)、 1310 倶利伽藍岳(1252b)、1410 怒田の宿址、1430-35 行仙岳(1227b)、1457 行仙宿山小屋(同宿0人)

距離が長いので、この日は4時に起きる。雨がかなり降っているが、食事を終える頃にはやや小降りになっていた。この日は写真をほとんど撮らなかった。太古の辻で前鬼への道を分けると、いよいよ奥駆けの南部に入っていくことになる。石楠花岳のかなり手前でシャクナゲの鮮やかな深紅の蕾を見た。ここのシャクナゲはこんなにも赤いのかと驚いたが、蕾だったためらしい。石楠花岳が楽しみになったが、そこのシャクナゲは数こそ多かったが、花はまだ咲いていなかった。天狗山、奥守岳、地蔵岳(子守岳)と気楽な道が続く。鹿の骨が落ちていたのに驚いた。真っ白の足と頭の部分である。だんだん雨と風が強くなってくる。風がなければどうと言うことはないのであるが、風をまともに受ける尾根道が続くので、Tシャツに防水の効かなくなった薄いゴアの雨具を着ているだけでは、かなり寒い。

出発して3時間以上経ったので、なんとか風をよけて、中食をとる。歩きながらでも食べられるようにと、余ったご飯で小さな握り飯を作っておいたのを口に入れる。歩きながらではとても食べることはできない。涅槃岳、証誠無漏岳、阿須迦利岳と風雨の中で登り降りを繰り返していると、まさに修行をしているような気分になる。山の楽しさを知らない人に「降りるのが分かっているのに、なんで好きこのんで登るのか、気が知れない」とよく言われるが、そのような指摘がよく納得できる日となった。予定よりうんと早く持経ノ宿に到着したので、雨をさけて小屋の中で、ストーブを取り出して、2度目の中食とする。少し風も弱まり、小屋の前のヤエザクラの花やウグイスの声を楽しむ余裕がでてきた。

宿を出てしばらくすると、大ヒノキ、大ミズナラがある。千年檜と名付けられているが、樹齢200年ほどとの解説がついていた。持経の宿の手前から、山道にアセビの花が一面に落ちているのが目につく。これが笠捨山の先まで続く。六甲などで見る木よりかなり大きく、見上げてもなかなか花は見つからない。若い木も多く、とくに若いものはその先端の新芽がピンク色をしており、可愛らしい。アカヤシオの花も落ちている。場所によっては固まって落ちており、華麗に道を彩っている。ミヤマシキミらしい花が一株だけ咲いていた。転法輪岳、倶利伽藍岳を越えるころには豆台風なみの激しい風になり、どんどんと身体が冷えてくる。濡れたTシャツの上にもう一枚着ることも考えたが、乾いたものを1枚でも温存したいので我慢する。電波塔の立つ行仙岳も水補給に立ち止まっただけで、小屋へと最後の下りを急ぐ。


出発して8時間半で行仙ノ宿に到着できたのは悪天候のお陰である。すぐに真っ裸になり、乾いたものに着がえ、絞れるものは絞ってハンガーに架ける。お湯を沸かして熱いコーヒーを淹れて飲む。4枚ほど重ね着してもまだ寒いのでシュラフに潜り込む。それでも30分ほどは震えが止まらない。途中で足でも動かなくなったら危なかったかもしれない。北八ヶ岳の時の方が、はるかに気温は低く、風も強かったが、濡れていなかったので、何とかTシャツと雨具だけで歩けていた。やはり濡れた上に風が強いということは危険なことだと再認識した。のちにトムラウシで低体温症になったが、後から考えるとここの症状もまさに低体温症だった。少しだけウトウトとしたあと、多少気分が悪かったが、気を取り直して、夕食を作る。神戸の若者から譲られたトンコツラーメンに焼き豚、ネギなどを入れたものにしたが、すんなりと胃に収まってくれた。もう一度濡れたものを着て、水汲みに行くのは大変なので、少し古いが、ポリタンクにあった水を、少しだけ炊飯用に使わせて貰う。1000円の寄付をとあったので、多少気が楽である。雨に濡れずにトイレに行けるのもありがたい。20時頃寝る。




ガスに包まれよい雰囲気

 


このあと風雨が激しくなる




持経千年檜

 


持経千年檜

 


ミズナラの大木

 


行仙宿内部


2008. 5. 11 行仙ノ宿から玉置神社まで


コースタイム

0700 行仙宿山小屋、0704-13 ロス、0841-47 笠捨山(1352b)、0906 葛川辻、0945-1007 ロス、1007 槍ヶ岳、1018 地蔵岳(1250b)、1100-30 四阿宿跡、1157 香精山(コウショウザン;1122b)、1230 貝吹金剛(塔ノ谷峠)、1328-40 如意宝珠岳(736b)、1508 花折塚、1610-12 玉置山(1076b)、1629 玉置神社(同宿0人)

朝起きると、かなりましになっていたが、まだ小雨は降っている。よい方向には向かっているのは間違いない。乾いたものを濡らす気にはならないので、出発直前に昨日の濡れたものに思い切って着替える。出発してすぐに道をはずしてしまう。広い尾根を下って行くが、なにも道らしい気配がない。コンパスで確かめると北西に向かっている。10分ほどのロスで、縦走路に戻る。この奥駆け道は、分かりにくい所がいっぱいあるので難しいと聞いていたのであるが、今回来てみると、実に行き届いており、迷うことはほとんどあり得ない。道らしくない所を歩いているのに、しばらく標識がないと、それは間違った所をあるいているのだと確信できるほど、整備されている。世界遺産に指定されたためであろうか。熊野奥駆け道の神秘性や冒険性が失われてしまって残念と思うのは贅沢なのだろうか。

ウグイスやツツドリの声を聞きながら、いくつものピークを越えて笠捨山に向かう。遠くからツインピークとして見えていた山であるが、この日はなにも見えないまま登ることになる。アセビやヤシオツツジはこの日も健在である。ヤマツツジも出てきた。このあと、難所として知られている地蔵岳の縦走となる。しかし、ここも至る所に鎖やロープが張り巡らされている。木の根、木の枝がしっかりしており、頼りになるので、それがないと通過できないような鎖は数本程度ではないだろうか。少々過保護であり、これでは修行にならないのではと思った。しかし、鎖自体は必要なくても、それがあると登山道であることの印になるので、ありがたかった。山道のようなものはないので、自分でルートを全部見つけるのは難しいにちがいない。実際、槍ヶ岳の標識にでる寸前で、分からなくなって、20分ほど2度目のロスをした。このときも、目印がないのに、ガレ場を下って様子見をしたので時間をとった。目印がない所は道でないというこの山の原則に忠実であれば、ロスタイムはもっと短かったに違いない。地蔵岳の下りが大変とあちこちに書いてあったが、とくに難所らしい所はでてこないまま、コイワカガミやアカヤシオを見ながら、四阿宿跡につく。一休みして、中食をとる。


香精山を越えると、杉林が増え、花もまばらとなる。貝吹金剛を越えて右下に21世紀の森なる遊園地が見えるあたりになると、だんだんガスが切れ始め、遠くの山も見えるようになる。十津川の奥にある行仙岳かもしれない。遊園地に車が数台駐車しているのが見える。そう言えば、この日は日曜日だったのである。モチツツジがチラホラと出てくる。如意宝珠岳についたとき、雨具の上着とスパッツを脱ぎ、乾くものを乾かす算段をはじめる。あとは林道に出たり入ったりしながら、玉置山を目指す。杉林の中をゆっくり登っていく。同一勾配に設計したのではないかと思うほど単調な道が長い間続く。南北朝の戦争の際の記念碑である花折塚が、わずかに変化を与えている。大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)がこのあたりを逃げ回っていた時の家臣である片岡八郎の忠義を頌えたものという。なんと死後600年も経った1915年に「正五位」が贈られたとある。これは1911年に南朝が正統とされたための結果であり、「勝てば官軍」の典型的な例である。

その後、十津川が見下ろせる場所があり、川の形からいって、折立の部落が見えているらしい。その先には、牛廻山から鉾尖岳に続く県境尾根が見えている。林道そばに設けられた玉置山展望台につく。櫓が組んであるので、もちろん登ってみる。歩いてきた北側が見えるかと期待したが、相変わらず厚い雲に覆われている。展望台の反対側に少し入ってみると、真っ白の大輪のハクサンシャクナゲが咲いていた。林道に戻り、世界遺産の記念碑のところからカツエ坂に入っていく。「飢坂」と書くらしい。悲惨な由来があるのだろう。玉置山の頂上部分は、シャクナゲの木で一面覆われており、そのすべてが満開に近い。多分自然のものであろうが、どこかの観光地のシャクナゲ寺のような咲き方だった。


あとは神社までブラブラと15分程の下りである。立派な杉林が古い神社のもつ尊厳さを示している。本来、登山者は泊めないが、奥駆けした人はそれなりの宗教心があると甘く解釈して泊めるという。信仰のないものとしては気を遣う。早めに着いてよかった。神武天皇、あるいは崇神天皇が作ったというので、どちらにせよ随分と由緒ある神社である。まずは、境内を散策する。ここもシャクナゲにあふれているが、さすがに山頂と違って、うまく配置されており、神社の建物としっくりしている。靴を洗い、支払いをすませたのち、風呂に入れて貰う。ありがたいことである。食事が食堂に用意されており、久しぶりのたっぷりの生野菜に感激する。品数も豊富で、朝食用として用意されていた弁当も立派なものである。部屋にはお茶の他、大きくてジューシーなミカンが置いてある。これで、5000円と聞くと、弥山小屋の素泊まりの5500円は一体何だったのかと言いたくなる。翌日もそれほど急がないので、明るい電灯のもとで、地図を見て翌日の予定を考えながらゆっくりと過ごす。




笠捨山山頂

 


アセビとムラサキヤシオの花が敷かれた道



槍ヶ岳の道標

 


地蔵岳



アカヤシオ

 


四阿宿跡




21世紀の森が目の下に。その奥はP971か
 


如意宝珠岳



林道の先に玉置山
 


十津川


玉置山展望台

 


玉置山のシャクナゲ群落




玉置山
 


玉置神社の境内



玉置神社本殿

 


久しぶりの豪華な夕食



2008. 5. 12 玉置神社から熊野本宮まで


コースタイム

0614 玉置神社、0632 玉置辻、0725 大平多山分岐、0751 大森山(1078b)、0800 大水の森(1045b)、0908 五大尊岳の標識(〜790b)、0916-34 休憩、0951-54 五大尊岳(825b)1051-1103 金剛多和、1124 大黒天神岳(574b)、1216 山在峠、1322-56 展望台、1406 七越峰(262b)、1443 熊野川徒渉地点、1512 大斉原でバスに乗車

夜に外にでると星が鮮やかに輝いていたので、もう回復したのかなと思ったが、朝起きるとまたガスに包まれている。前夜にもらった弁当の7割くらいを食べ、残りを行動食として持参する。玉置神社までくると、なんとなく終わったような気になるが、まだもう一日かなりの距離を歩く必要があるので、気が抜けない。

この日の道は杉林の中を歩くことが多く、6日の行程中で最も変化に乏しい所である。玉置辻、大森山を越えると、ツバキがかなり見られるようになり、シャクナゲ、ヤマツツジ、モチツツジなども咲いている。大森山でメモを取りながら歩いていて手袋を落とし、取りに戻って5分ロスする。ほぼ休みなしで3時間歩き、五大尊岳で行動食をとる予定にしていた。五大尊岳の山名表示があったが、吹きさらしなので、少し下ってから腰を下ろす。食べながら昭文社の地図には五大尊岳(825b)でルートが二手に分かれるとあったのを思い出し、アレッと思った。そのようなものを意識することなく通り過ぎたからである。食後、確認しに戻るのも厄介なので、南に向かって歩く。しっかりした道なので、南東への支尾根ではないと思ったが、コンパスはときどき南東を示す。五大尊岳からは南西へ下り一方のはずなのに、何度も登ったり下ったりするので混乱してしまった。GPSをはじめてまじめに取り出す。林の中ではあったが、木が疎らだったので、割に簡単に電波をとらえてくれた。まだ、P825には達してなかったのである。すぐにP825になり、確かに南東への支尾根への道もある。そして、ここにも五大尊岳の標識があった。

このあとは、標高50mの熊野川まで、多少の登りもあるが、淡々と下ることになる。結構長い道のりである。途中で初めてギンリョウソウを見た。P825から3時間歩いて、下に熊野本宮の鳥居を望める展望のよい草地に出たので、また中食とする。よく分からないが吹越峠のすぐ南あたりか。南西にははじめてお目にかかる大塔山系らしきものが曇り空の中にクッキリと見えている。川のすぐそばの大日山の奥のピラミッドが野竹法師、本宮中学の奥の三角形が笠塔峰と暫定的に同定しておく。最終バスには悠々と間に合うのは分かっていたので、ここではバスの時間を気にしないで休んだ(あとで調べると17:15発のバスはなくなっており、飛び乗った15:12発が最終バスだった!)。


七峰峠を越えてからも、河原まで登り降りもあって30分以上かかった。熊野川の堰堤につくと、すぐ下流側に備崎橋が見えていた。昔の行者のように、川の冷たい水で身と心を清めてから本宮に行くことにしていたので、ズボンをまくって徒渉をはじめる。高い所から見てもそばで見ても穏やかな流れだったので油断してしまった。ウェストポーチに入れていたカメラも一応はビニールの袋でくるんだが、口を縛ることまではしなかった。ポールも手で持っただけで、リングに腕を通すことはしなかった。途中まで来ていきなり深みに足を取られ、あっという間に泳ぐはめになった。そのまま対岸に上がり、神社のそばで、濡れたものを絞り、そのまま大斎原(オオユノハラ)を訪れる。写真を撮ろうとして、カメラが濡れてやられてしまったことに気がつく。川から上がってすぐに対処しておれば、助かったかもしれないので、悔やむこと甚だしい。ともあれ、バス停と時刻を確認しようと大通りにでる。すぐそばに大斎原というバス停があった。時刻表をのぞき込むより前に、向こうからバスが近づいてきた。もう何も考えずに行き先だけ確かめて、それに乗る。幸い誰ものっていない。最後尾に陣取って、靴、靴下、ズボン、パンツ、Tシャツと順に脱ぎ、絞り、着替えていく。メモを書き入れた地図類も濡れてしまったので、一枚一枚はがして、乾かす。カメラも一応乾かす努力をしておく。ズボンだけは代わりがないので、体温で乾かすより方法がない。幸い寒い日だったらしく、バスには暖房が入っている。途中で中辺路あたりを歩いてきたらしい中高年の4人連れが乗ってきたが、その頃は一段落しており、さらに学生達が乗ってくることにはほぼ片づけが終わっていた。紀伊田辺駅に着いて、すぐに切符を買い、駅前の食堂で、生ビールを飲みながら、久しぶりのごちそうを食べる。食後のコーヒーを飲み終わらないうちに店を出て、発車寸前の特急に乗り、21時前に家に帰ることができた。

帰ってから調べてみて、大斎原は1889年の大水害まで本宮のあった所で、今は5分ほど離れた所に熊野本宮があることもはじめて知った。如何に宗教に無縁の奥駆であったかが分かる。今回は行者さんには一切出会わなかった。行者さんだけでなく、登山者もほとんど出会わなかった。1日目5人、2日目10人位、3日目と4日目は各1人、5日目と6日目は0人だった。主要ピークである山上ヶ岳、大普賢岳、弥山、八経ヶ岳、釈迦ヶ岳、笠捨山、玉置山のすべての山頂で誰にも会わなかったというのは珍しいかもしれない。人は少なかったが、期待していた深山の奥深さ、宗教のもつある種の霊気、未開発のための危険性等々からは無縁の山行となり、ある意味で期待はずれだった。行者の主催するツアーに参加するともっと面白いのかもしれない。しかし、吉野から前鬼までの3日ツアーで55000円という設定と聞くと、二の足を踏んでしまう。

4年前のホームページに「山は深く、ブッシュも酷く、登山道は殆ど完備されておらず、とくに道標や案内板は無いにひとしい」と書いてあるので、この4年間に大きな手入れがあったのだろう。しかし、気持ちのよい山稜もかなりあったし、前半は山頂からの展望も楽しめた。花もまずまず咲いていた。6日行程にしたため、長い距離を歩いてもあまり問題がなかった。3日目以降になるとザックが軽くなり、重荷を背負っているという感触がほとんどなくなった。テントを持たなかったので、日毎の食糧の軽減がもろに感じられたのであろう。カメラは駄目になったが、撮影記録が消されずに残っていたのはありがたかった。





大森山



二度目の五大尊岳(825b)


大黒天神と熊野川

 


吹越峠南の展望地
 


吹越峠近辺から最終ゴールを眼下に望む

 


七越峰



緩やかで浅い熊野川の徒渉地点と大斉原の森

 


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