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懐かしいテントサイト  



学生時代の山行では、剣の別山平、穂高の小梨平などで何日間かのテント生活を楽しんだが、それ以後はテントを使った山に行かなかった。定年後の2007年から2015年までの9年間の山行にかなりテントを使った。どこも、それぞれに思い出があるが、強いて20ヶ所を選んでみた。

 

オンネト−(2012. 10. 24)


 北海道でもっとも気分がよかったのは、阿寒国立公園のオンネトー国設野営場。10月末で閉鎖するサイトにはテントが一つだけあった。アカエゾマツ、トドマツ、シラカバの森の中にあり、施設も完備している。ふんわりした土の上に張ったテントからは湖や山は見えなかったが、少し外に出ると雌阿寒岳、阿寒富士が湖に映る静謐な光景に出会える。夜になると、阿寒富士の上に月が出ており、別の味わいを楽しめた。翌朝テントを出発して、雌阿寒温泉から雌阿寒岳、阿寒富士を巡った。正午にはオンネトーに戻り、テントを回収してその日のうちに兵庫の自宅まで帰った。



三川台 (2009. 07. 11)


 
 天人峡温泉に泊り、ヒサゴ沼、三川台、双子池、美瑛富士を経て白金温泉までの5泊5日のトムラウシ縦走。大量遭難のあったのと同じ時で、化雲岳を越えた日、オプタテシケを越えた日は、いつ低体温症で倒れてもおかしくない状況だった。三川台のテント場だけは穏やかな一晩。トムラウシを越えてエゾノハクサンイチゲの群落を通り過ぎる頃に風雨が治まり、三川台ではゆっくりと近くのテントの人としゃべったり、水汲みに行く余裕もあった。翌日も一日中、安定していたが、双子池の少し上のテント場ではきれいな水を得ることができず、眼の前のオプタテシケがいつまでも姿を現さないので落ち着かない夜となった。



高谷池 (2011. 06. 08)


 妙高に登ったのち、大倉乗越へのトラバース道で大変苦労し、予定よりかなり遅くなって高谷池ヒュッテに着く。他に誰もいなかったので、小屋のすぐそばに張ってもよいと言われ、近くのウッドデッキも食事などに使わせてもらう。本当のテントサイトがどこかは分からなかった。夕焼けの空をバックに焼山、影火打、火打の3山が並んでいて、いつまでも見飽きることがなかった。
 翌日は、焼山を越えて糸魚川までと考えていたが、前日の苦労を考えて、影火打の先の展望台で引き返すことにした。昼食を高谷池ヒュッテでのんびりととり、笹ヶ峰に下る。




笹ヶ峰 (2011. 06. 09)

 
 高谷池からの下りは、予報通り、夕刻には雷を伴うかなりの雨となった。しかし、笹ヶ峰のテント場に着く頃にはすっかり雨も上がった。携帯は通じないが公衆電話があったので、家に電話をして予定の変更を伝えておく。テントサイトに着いても誰もいない。広々とした緑の中で好き勝手にサイトを選べる。また雨があるかもしれないので、屋根付き炊事場のそばに陣取り、濡れたものなども辺り一面に広げてから、ゆっくり食事にする。翌朝は乙女湖、笹ヶ峰牧場を散歩しながら、まわりの山々の眺めを堪能した。



雁峠 (2012. 05. 18)

 左の写真は朝日がかすかに峠の一部を照らし始めたときのもの。乾徳山と黒金山の山腹に雁峠のくぼみの影ができている。自分の影も見えているに違いない。乾徳山の左手遠くには南アルプス。左端の上河内から、聖、赤石、荒川をへて、笹山あたりまでが見えているよう。東側にはすぐ近くに三角錐の笠取山が聳えている。テントを張るのに水が得られることが必須の条件だが、ここは1780bの峠なのに、2-3分新地平の方へ下った所に水場がある。以前に歩いたときは、雪の下だったので目につかなかった。



バラ谷の頭 (2010. 05. 28)

 寸又峡温泉から、黒法師岳、蕎麦粒山、沢口山を経て温泉に戻る周回コースを歩く。黒法師岳から南西方向に下り、コル近くで水を調達してから、登りついたところがバラ谷の頭。鎌崩、丸盆岳、黒法師岳が目の前に見えるのがよい。本邦最南2000bの標識がある。このあと、鋸山あたりまでの一帯は密集したササでなかなか人を寄せ付けない秘境となっている。登山者の踏み跡ははっきりしないが、獣道は明瞭に、しかも何本も通じていて、獣の方が主人なのが実に愉快だった。  



立山・雷鳥平 (1962. 07. 16)

 学生時代の夏山合宿の初日、弥陀ヶ原ホテルから歩きはじめ、雷鳥沢にテントを張った。翌日、上高地への縦走隊8人は剱岳往復、剣沢定着組の4人は一の越より雄山、浄土山、竜王岳、鬼岳、獅子岳、ザラ峠をへて五色ヶ原までピストン。重い荷物を持たないので快適そのものだった。素晴らしい展望と高山植物を堪能する。その夜も同じ所に全員で泊る。剣沢で数日を過ごした後、またここを通って下山したが、一週間のうちにバスの終点が天狗平まで延長されており、楽させてもらった。



劔沢・別山平 (1962. 07. 18)



 
 上述の雷鳥平での2泊後、別山平に入り定着する。長次郎雪渓を詰めて剱岳本峰の南壁で岩登りらしきものを経験した。三の窓の雪渓を登ったときは、紺碧の空、白い雪、褐色の岩峰の絶妙なハーモニーに感動。小窓の王で見飽きぬ展望を満喫したあとの三の窓から長次郎の頭へのガレ場の登りに苦労したのも記憶に残っている。長次郎雪渓をグリセードで下った後の剣沢の登りも長く感じた。立山の富士の折立、大汝山、雄山に行った日も快晴で、槍穂の稜線もくっきりと眺めることができた。その後も何度かここを訪れているが、そのときは剣沢小屋泊まり。新雪をまとった剣の頂上を踏んだり、仙人池ヒュッテから阿曽原に下りたりと忘れられない思い出が詰まっている。



種池小屋 (2009. 05. 09)

 冷池で一泊したのち、鹿島槍に登り、前日は一部をスキップした爺ヶ岳の北峰、中央峰、南峰を丁寧にたどり、種池小屋のそばでテントを張る。他には1張だけ。風があるので固定するのに苦労する。水はきれいな雪を融かして作る。入口を劔・立山に向けて置くか蓮華・針ノ木・岩小屋沢に向けるかというぜいたくな悩みののち、後者を選ぶ。遠くから見る針ノ木雪渓はとても急峻で、あんな所をよく登ったものだと思う。小屋が近くにあるのはなにかと便利で、テレビで翌日の天気予報を知ることができた。




雲の平 (1961. 08. 03)

 クラブの夏山登山で、烏帽子岳から立山まで縦走するという計画を立てたが、天候不順で大幅な計画倒れの山行となった。一日遅れで着いた雲の平も夕刻から本降りになり、翌日は停滞。小雨の中を、5時間ほどスイス庭園、奥日本庭園、アラスカ庭園、日本庭園などを巡り、素晴らしい光景を堪能する。数えきれないほどの花に出会う。写真の右奥は建設が始まったばかりの雲の平小屋。夕食をテントの外で食べられたので気分がよくなる。翌日の天候は台風接近のため最悪で、なんとか双六池に辿り着くが、全員ずぶ濡れ。翌々日は一日中テントから出ることなく過ごす。



双六池 (2012. 07. 23)


 上の記録の時は、双六池の周りを見る余裕もなかった。左の写真は、50年後に 笠ヶ岳から双六池まで来たときのもの。着いたのが早かったので、樅沢岳に往復したのち、ゆったりとしたテント生活を楽んだ。翌日は、テントを置いて、三俣蓮華を過ぎて、チングルマ平という黒部五郎の好展望台まで行って引き返し、もう一泊した。これまでは、ほとんど一人だけのテント泊だったが、ここでは他人のテントを沢山見た。ほとんどのテントがフライをつけていたのに驚いた。確かに利点もあるだろうが、少しでも軽い方がよいので、その後も使う気にはならなかった。



笠ヶ岳 (2012. 07. 22)

 前日泊まったワサビ平から、笠ヶ岳に登る。笠ヶ岳山荘でテント泊の手続きを済ませ、頂上を往復し、山荘より5分ほど下のテントサイトに行く。広い場所にテントは2-3あるだけ。広いが、下は平たんでなく、石がゴロゴロしている。水場は往復で10分程度と近い。着いた日は曇り空だったが、翌朝は快晴となり、大展望が広がる。目の前に槍・穂高のすばらしいシルエットが迫っており、前日見えなかった笠ヶ岳の三角錐もすぐ近くだ。雲海の上には、富士山、南アルプス、中央アルプス、乗鞍岳、御嶽山など。



上高地・小梨平 (1964. 05. 06)

 学生時代になんどか訪れた場所。いちばん印象に残っているのは、春合宿で何日か過ごしたのち、常念の方へ縦走する他の人たちと別行動をとり、小梨平のテントに一人で残ったとき。翌日に下山するつもりだったのに、朝起きると大変な好天気で、帰るのが惜しくなった。9時頃の遅い出発となったが、岳沢、天狗沢から天狗のコルに登り、ジャンダルム、奥穂、涸沢、横尾を経て上高地まで歩き通し、明るいうちに戻ってきた。穂高岳山荘から涸沢までシリセードで15分で下りることができたので、かなりの時間短縮になった。



越百小屋跡 (2012. 09. 25)



 
 中アには無人小屋泊りが便利なのでテントを使うことはなかった。中ア南部の藪こぎ地帯を歩くには無人小屋頼りでは心配なのでテントを持って出かけた。できるだけ軽量化しようと初日は越百小屋泊まりを考えたが、団体が入って満員という。やむを得ず、旧越百小屋跡に泊まることにする。越百岳と南越百岳のコルから伊那谷の方へ30分ほど下りた所にある。一張りするに十二分のサイズ。谷間なので広々というわけにはいかないが、心配していた虫もおらず、水汲み時間を含めて10分という近さに水場があるのがありがたかった。テントサイトとして素晴らしいというのではないが、難渋をきわめた袴腰山から引き返してもう一泊したので、忘れられない。

 


比良・八雲ヶ原 (2013. 04. 15)

 坊村でバスを下り、御殿山で昼食をとり、武奈ヶ岳を経て50年ぶりの八雲ヶ原に行く。前回来たときは残雪に覆われていて大変よい印象を持ったが、雪がなくても広々としていて好感が持てる。すでにテントが一つだけ張られている。イモリが沢山いる池のそばに大きな岩がいくつかあったので、その近くをテントサイトときめる。調理や食事に好都合だからだ。時間があったので、2006年の1月に来たときに雪が深すぎて諦めた釈迦岳まで往復する。翌日は、蓬莱山、小女郎池、権現岳を越えて栗原まで歩いた。



北谷尻谷 (2012. 03. 26)


 鈴鹿の奥座敷と言われる神崎川源流地帯にはよく通った。あちこちにテント適地がある。白滝谷、ヒロ谷、上水晶谷などと神崎川との出合、杉峠近くの鉱山跡、佐目峠、イブネ、コリカキ場など、いずれも人と出会うことのない秘境の雰囲気をもっている。それらの中でも、もっとも好ましかったのが、コリカキ場を少し上流方向に行った北谷尻谷の疎林の中のサイト。このときは、新緑の春には間があり、淋しい枯れた林だったが、何とも言えない奥座敷の雰囲気がよかった。モミジのときもさぞ素晴らしいだろうと想像をかきたてられた。



佐目峠 (2010. 05. 15)



 女房殿を一度鈴鹿の奥座敷に連れていきたいと考え、少し暖かくなった5月に車で出かけた。この山域に車で来たのは初めて。永源寺から車止めまで、歩いて1時間50分かかった所を、15分ほどで着いてしまう。美しい新緑、道端の野草、美声を聞かせる小鳥、信長時代の遺跡、鉱山跡、クマシデなどの名木を楽しめるので、女房殿も満足している。杉峠を通り過ぎて杉峠の肩まで頑張る。広々として本当に心の休まる所だ。佐目峠では、広場にテントを張る。日が長いし、翌日はとくに急がないので、のんびりと水汲みに行き、コーヒーのあと、食事をする。シュラフが一つしかなかったので、結構寒く、カイロの世話になった。



明神平 (2011. 05. 06)

 台高山脈の高見山と池木屋山のほぼ中央にある広々とした平原で、あちこちに道が通じる要衝の地点でもある。水場がやや不便なのが難点。大豆生の方へ少し下った所にあるとのことだったが、なかなか見つからず、小さな沢の方へ強引に急斜面を下って取水した。この難点を含めてもベスト20に入れたくなるのは、やはり広々としたのびやかさのためか。半年後の1月に、雪と戯れるためにここにテントを張り、周辺を散歩した。朝起きると、しっかりと整地していなかったためか、体温で雪が融け、テントの床面が凹んでいたのが面白かった。



坊ガツル (2011. 09. 14)

 誰しもが九州一のテントサイトと認めるに違いない久住山中の草原。「坊がツル讃歌」という歌に「四面山なる坊がツル」と詠まれている通り、西側にはすぐ近くに三俣山南峰が聳え、平治岳、大船山、白口岳、中岳などがぐるりと囲んでいる。それなのに、閉塞感のようなものは全くなく、実に闊達な趣きだ。山の景観、草原の広さ、静けさ、水の豊富さ、どの観点からも一級のテントサイトと言える。近くには法華院温泉という宿もあるので、温泉に入ることもできる。



Monument Valley (1974. 08. 15)


アメリカのペンシルバニアからアリゾナまで、乗用車にテントを積み込んで、家族連れで往復した。8日間のドライブののち、アリゾナ州に入り、暮れゆく砂漠の中をひた走る。少しテント生活も疲れたので、この日はモーテルに泊まることにしていたが、どこも満室。ガイドブックで近くのキャンプ場を探し、「Welcome to Utah」とか「Watch Animals」といった標識に恐れをなしながら、キャンプ場にやっと辿り着いたのは22時ころ。翌朝テントから頭を出すと、西部劇によく出てくるMonument Valleyの景観が目に飛び込んできた。ここに立ち寄る計画は全くなく、前夜もここに来たとは知らなかったので、本当に感激した。



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