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東海道新幹線からの山岳展望


これは『新ハイキング』20076月号〜10月号に掲載された記事に手を加えたものです。


新幹線から山座同定を楽しむ(5)米原=新大阪

の最終区間から見える山は、すべて標高 1400 m 以下で、50 q 以内にある山ばかりである。これまでに比べて、遠方の高峰を見る機会はないものの、退屈することは全くない。小さな山でも、それぞれが刻んできた歴史を背負っており、それに思いをめぐらせるのは楽しい。

琵琶湖越しの野坂山地

米原過ぎると新幹線はほぼ南に向うので、右後方に見えるのは高島市付近の野坂山地である。同じくらいの高さの山がかなりの幅で並んでいるので分りにくい。百里ヶ岳から乗鞍山までの展望図を示す。高さは最高でも974 mで、比良山地に比べても低いが、すぐうしろが日本海のため、冬の積雪量はかなり多い。比良山地はその左手で、進行方向の右前方に見えてくる。


在来線と別れた後、鳥居本のところで近江鉄道と交差する。そこで右手に見える丘が明智光秀の城があった佐和山である。領民から慕われていた光秀の影を払拭するため、関ヶ原合戦の後、城は徹底的に壊され、今はほとんど何も残っていない。当時の過酷さが見えてくる。このほかにも、近江盆地には、いくつもの特徴的な小山がある。それらには色々な歴史があるので、登る以外の楽しみがある。それらと親しむことにより、背後の山々の同定が容易になるのはもちろんである。

西側からの鈴鹿山脈

この区間の楽しみの一つに、左車窓からの鈴鹿山脈がある。濃尾平野から見るのに比べると、かなり近くからの眺めとなる。最高の展望個所は豊郷町の町立図書館の前後であろう。霊仙山から鍋尻山、高室山を経て、三国岳、鈴ヶ岳、御池岳など鈴鹿の北部が並び、天狗堂などの山が続いている。さらに手前の山が立ちはだかった右に、雨乞山が顔をのぞかせる。これらの眺めはとても一枚の写真に収まらないので、ここでは三国岳から高取山までの図を載せておく。


日野川少し東からの鈴鹿山脈も悪くない。瓶割山や雪野山を前景に、雨乞岳、綿向山が近づいて見える。主稜線はすっきりとは見えない。その前に、舟窪、クラシ、イブネなど、鈴鹿の奥座敷といわれる山並みが横たわっているためである。この辺が鈴鹿山脈の見納めとなる。

仏教にゆかりある比良と比叡

右車窓から比良山地を眺めるにも、日野川はすぐれた地点である。距離も適当であるし、屏風のように広がる姿もよい。霊仙山から蛇谷ヶ峰までの図を示しておく。霊仙、権現、法華、蓬莱、釈迦などの山名からも想像できるように、ここも古くは山岳修行の場であった。右側には、野坂山地も見えており、左側には比叡山が近づいてくる。比叡山の最も見栄えがよい姿は、もっと西に行った大津市瀬田付近からのものであろう。四明岳と大比叡を中心に、左右に大きく裾を広げている姿はすっきりとしている。


野洲川の手前で、近江富士の別名をもつ三上山が左車窓に見える。この山は、新幹線からの山岳展望という意味で、大変興味深い。上り列車に乗っているときの話であるが、京都から音羽山トンネルを出て、大津市に入ると左側の車窓からごく短時間、見応えのある三角形の山が見える。ところが、瀬田川を渡り、少し建物の影になっている数秒間に見失ってしまうのである。16 kmも東に行って、野洲川を渡った所で反対側車窓に見える三上山が短時間見えていたとは知らず、狐につままれたような気分であった。

さて、下り列車の展望に戻り、京都駅直前の鴨川からの展望図を示す。上流方向に義経で有名な鞍馬山などの京都北山があり、その右に比良、比叡から大文字山までが見えている。比良、比叡は琵琶湖方面から見ていたのを裏側から見ていることになる。屏風のように見えていた比良は蓬莱山などのピークが見えるだけとなる。比良や比叡には、京都と滋賀の両側から登山道がついており、異なる味わいがある。京都の修学院から比叡に登る雲母坂登山道は、深くえぐられた花崗岩の道である。最澄・親鸞などの高僧や天皇の勅使が登り、朝廷に強訴する荒法師たちが駆け下った道かと思うと、登山道の凹みそのものにも感慨を覚える。

京都近辺の低山群

京都を出ると、西北の愛宕山が目を引きつける。桂川を渡るときに上流に見えるのがそれで、見逃すことはない。

向日市、長岡京市に入ると、右側車窓には、アンテナが林立している小塩山、その左のポンポン山が大きく見える。そして右前方には、信長死後の天下分け目の戦いがあった天王山がある。天王山は、大山崎で最接近するが、あまり近過ぎて、山として認識できなくなる。

向日市と長岡京市の境で名神道と交差する。この辺りで左側に見える京都近辺の展望も優れている。京都から離れるにつれ、全体像がよく分かるようになる。比良では、蓬莱山の他に武奈ヶ岳も見えている。また、大文字山の右側に続く山は、この辺りから見るのが最もよい。歌枕となっている逢坂山のあとは、新幹線を跨いで、伏見稲荷の稲荷山、音羽山、秀吉の花見で有名な醍醐山、「わが庵は都の辰巳….」の歌で知られる喜撰法師が住んでいた喜撰山、大峰山、鷲峰山などと続くが、とりとめのない山容なので、目をやる人は少ないかもしれない。

北摂、六甲、生駒の山々

大山崎の谷間を抜けて高槻に近づくと、近くの山がとぎれ、右前方に北摂の山塊が現われる。箕面の北にある鉢伏山、明ヶ田尾、石堂ヶ岡などである。少し進んで芥川を越えた所から振り返った展望図を示す。この図には、石堂ヶ岡の北側にある半円形の竜王山からポンポン山までが入っている。竜王山の手前にある低い阿武山には、藤原鎌足の墓かとも言われている重要な遺跡がある。1934年に発見されたが、皇族の可能性もあるという理由で埋め戻され、確定的なことは分からないままになっている。ポンポン山は左手に高く見えている前山の右になるので、少し見つけにくい。


近畿道のすぐあとで神崎川を越える。ここが六甲連峰の最もよい展望地点である。メリハリのない山容であるが、関西の名山の一つなので、図面を示しておく。左端は摩耶山である。その隣の高く見えるのは長峰山で、うしろの摩耶別山とほぼぴったり重なっている。六甲山最高峰は、ここから見るとやはり一番高く見えている。


反対側には、生駒山から高安山までの山塊が見えている。その南の金剛山一帯も見えるが、建物が途切れることがないため、生駒山と金剛山を一緒に眺めようとするとなかなか難しい。

これで、東海道新幹線からの山岳展望も終わりとなった。同定した山の数は460座となった。登った山は120と多くはないが、関西に移り住んで日が浅いので、やむを得ない所である。東北新幹線からの展望と同じように間違いがあるに違いない。読者からのご指摘をいただければありがたい。


「東海道新幹線から山座同定」連載をおえて

東海道新幹線からの展望の連載を終えたが、その後も乗るたびになんらかの新しい発見があり、いつまでも作業は終わりそうにない。気懸かりなところが沢山残っているという意味でも、東北新幹線からの展望と時とかわらない。

東京=新横浜間からの展望は、空気の汚れもあり、なかなか満足できなかった。奥秩父、奥多摩、奥武蔵などはやっと大菩薩嶺、三頭山、雲取山、武甲山などの主なものだけを見たという程度であり、快晴の正月にでも何度か乗車したいところである

伊豆半島が見える範囲についても、確信をもてないままである。小田原の東、大井川あたりからも可能性があるが、撮影はおろか、目視さえできていない。

南アルプスについては、新富士、静岡、焼津、浜名湖、豊橋からの同定をほぼ終えたと思うが、限られた情報だけなので、不十分な点があるに違いない。そのうち、カシミールで再検討しなければなるまい。また、藤本・田代氏の著書「車窓展望の山旅」に、鶴見川と新横浜の間で白根三山を見たとあったが、その機会を持たれた両氏が羨ましい限りである。南アの3000 m 級で見なかったのは仙丈ヶ岳のみであるが、見えないと断言するのは難しい。豊橋以西のどこかで見えているかもしれないと密かに思っている。

東海道からの山岳展望を少し熱心にはじめてすぐの頃に、恵那山と御嶽山を見た。この近辺は簡単なのかと思ったが、これは必ずしもそうではなかった。北ア、御嶽山、中アをしっかりと見たのは、1, 2回だけである。もっとじっくりと検討したいところである。どなたかが、白山を見たと書いておられた。今回も、長良川の左岸から、日永岳と笹見山の間に見えた山が白山ではないかと疑っているだけで、自信はない。それ以西で、見逃している可能性のある主な山はまずないだろう。連載の最後に460 座を同定したと書いたが、すでに撮ってある写真と地図を丁寧に見比べるだけで、いくらでも増やすことはできる。したがって、この数自体はあまり重要でない。

登ったことのない山を見つけるたびに、訪れてみたくなるのは誰でも同じであろう。これまで馴染みのなかった所にも、この連載をきっかけに随分と歩いたが、足を踏み入れたことのない山塊も、文字通り山のようにある。奥丹沢の一帯、笊ヶ岳から山伏の領域、能郷白山などの県境山脈、ならびに奥美濃の山々などは是非歩いてみたいところである。

東北新幹線からの展望の連載では、毎回文芸作品にでてくる山岳展望を取り上げた。東海道を始めるにあたり、どんなものがあるかなと頭を巡らせたが、ほとんど浮かんでこない。意外であった。その代わり、歴史に出てくる山を取り上げることにした。枚挙にいとまがないほど、多くの山が歴史的事件とかかわっている。東北の山でも、ないわけではないが、やはり重要性という点では東海道であった。


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