トップページへ  地域別索引へ  年次別索引へ  
忘れ難い山行へ  マニアックな山行へ




計画倒れの山行  



計画通りに進まなかった登山は多いが、とくに高年になってからのものが多い。実力を伴わない無謀な計画、悪天候に妨げられた場合、予想外の積雪に手古摺ったものなど、原因は様々だ。裏銀座以外はすべて単独行。


 

尾瀬 (2011. 07. 31)


鳩待峠=富士見峠=龍宮小屋=山の鼻=至仏山=笠ヶ岳=湯の小屋温泉、さらには余裕があれば武尊山もなどという大計画だったが、折からの新潟・福島を襲った豪雨のため頓挫。初日の尾瀬ヶ原も木道が水没していて、船の上を歩くような感じ。山の鼻では、テントを休憩所の中に張ってもよいと親切な話に有難く甘える。翌日起きてみると、雨は小降りになっていたが、木道や橋が壊滅状態で、とても藤原の方へは行けないと言われ、一日停滞する。皆さんが総出で修復にあたっておられた。こちらは足手まといになるので近くを歩くだけにしておいた。翌日、至仏山、悪沢岳、鳩待峠を経て山の鼻に戻る周回コースを歩く。途中の道もかなりの被害だった。4日目は、尾瀬ヶ原から尾瀬沼、三平峠を経て下山。入山も下山もままならないので、快晴の週末で高山植物の最盛期というのに、尾瀬ヶ原は隅から隅まで一人も歩いていなかった。珍しい経験をした。


荒沢岳 (2011. 10. 27)


銀山平=荒沢岳=兎岳=丹後山=十字峡という計画。これは3ケ月前の尾瀬の山の鼻の方と山談義をしているとき、三国川の十字峡が素晴らしいと強く勧められたので計画した。銀山平でテントを張った翌日は雨。急峻な岩場が続く山らしいので、敬遠してその日は奥只見湖の遊覧船で紅葉見物。翌日は縦走を諦め、テントを置いて快晴の荒沢岳へ。新雪をまとった中ノ岳から駒ヶ岳への稜線が朝日に輝いている。鎖を40本以上乗り越えると前ーにつく。そのあとは気楽な道となり、頂上に飛び出す。文字通り360°遮るもののない展望台だった。行くはずだった灰吹山、灰ノ又山、源蔵山、兎岳、大水上山、丹後山がずらりと並んで手招きしていた。今後、このように奥深い山々に来ることはできそうにないので、しっかりと目に焼き付けておき、来た道を引き返した。



妙高山(2011. 06. 09)


燕温泉=大谷ヒュッテ=妙高山=大蔵乗越=高谷池=火打山=焼山=笹倉温泉を経由して糸魚川まで出ることを考えた。2日目の妙高山から大蔵乗越へ出るときに雪面をかなり滑落し、大トラバースが終わった後もルートが分かりにくかったので、高谷池に着いたのは予定よりうんと遅くなった。焼山越えは早々に諦める。翌朝に目覚めたのが5時と遅かったので、焼山往復も無理かと覚悟する。火打を越えて、影火打の少し先の展望台まで行く。目の前の焼山の姿はドッシリとしていて風格があった。ここからの展望で印象的だったのは雨飾山がずいぶんと低い所に見えたことだった。高谷池でもう一泊するつもりだったが、火打山の上で展望を楽しむこともできなかったので、高谷池で昼食を済ませて、その日のうちに笹ヶ峰キャンプ場まで下りた。予報通り、15時すぎから雷とかなりの雨に見舞われた。



奥秩父・鉄山 (2008. 05. 30)


黒森=瑞牆山=金峰山=大弛峠=甲武信ヶ岳=十文字峠=梓山というコースを計画。雨の中、大日小屋でテント泊した翌日は好天となり、金峰山まで快適に足を進めた。森林地帯に入った頃から残雪が多くなり、ワカンを持っていなかったので、頻繁に腐った雪を踏み抜くようになる。股まで潜ることも多く、急に速度が落ちてしまった。2日目に甲武信までと予定していたが、とんでもなかった。大弛峠でテントを張ることにし、空身になって北奥千丈岳、国師ヶ岳まで行き、翌日に甲武信まで行けるかどうかの下見をした。国師以東は桁違いに難しそうであることが分かり、一日で甲武信まで行く自信が持てなかった。大弛峠からコースは全く頭になかったが、無難そうな川端下へ下りることにした。木暮・田部両氏が同じ時期にここを歩いた記録があった。一日で金峰から甲武信まで歩く予定だったのに、残雪に手こずり、諦めたというのを読んで、何となく嬉しかった。



中央アルプス南部 (2012. 09. 25)



今朝沢橋=越百山=奥念丈岳=袴腰山=安平路山=摺古木山=大平峠という計画だったが、聞いていた通りの猛烈な藪道で、山中で3泊して、全く同じ道を引き返すという珍しい経験をした。最初の晩は、越百山の近くの旧越百小屋跡に泊まり、翌日南に向かって出発した。写真は、南越百山で藪道に突入する寸前で予定していた安平路山(中央右の三角錐)方向を撮ったもの。距離的には全然遠くないが、丸一日を藪漕ぎで難渋した。袴腰山から松川乗越まで進んでおこうとしたが、どうしても道を見つけられず、1時間半ほど費やして、袴腰山まで戻り、笹の上にテントを張ることになった。翌日は、前進する気持ちになれずUターンしたが、一度通ったといってもなんの助けにもならず、ほぼ同様の苦労の後、南越百山に戻った。



雲の平 (1961. 08. 04)


葛温泉=烏帽子岳=三俣蓮華岳=薬師岳=立山と、裏銀座コースとダイヤモンドコースを結ぶ計画で出発したが、雨にたたられ大幅計画変更を強いられた。初日から、ブナ立尾根に行く前に濁沢でテントを張るはめになった。3日目の烏帽子から雲の平までは午前中はまあまあだったが、雲の平では本降り。4日目は停滞で、山小屋が建設中だった雲の平を雨の中、散歩しただけ。5日目は台風の接近で天候は最悪で、ほうほうの体で双六池まで前進した。当初の計画はもちろん破棄、槍ヶ岳から上高地へと計画変更する。しかし、6日目はテントから一歩も出られず、その計画も変更し、雨に濡れて重くなった装備をかつぎ、大ノマ乗越から新穂高に下りた。温泉で暖まり、生き返った。翌日は台風一過で青空が広がり、バスの中からアルプスの峰々を見上げた。




チングルマ平 (2012. 07. 24)


新穂高温泉=笠ヶ岳=双六池=黒部五郎岳=薬師岳=折立という計画だったが、三俣蓮華の少し先のチングルマ平で折り返し、新穂高に戻った。笠ヶ岳の夜、珍しく熟睡できなかったので、ひょっとしたら黒部五郎まで行けないかなと、心配になる。天気がよく、抜戸岳でゆっくりと展望を楽しみ、次々出てくる高山植物を見ていたら、双六池に着いたのは13時半となってしまった。その日はそこから樅沢岳をピストンして終わりとする。1日延ばせば薬師まで行けたのだが、家に携帯電話も通じなかったので、双六岳、三俣蓮華岳に登り、その先のチングルマ平まで行った。そこで、行く予定だった黒部五郎に流れる雲を半時間ほど眺めて過ごし、引き返した。双六池でもう一泊して下山した。50年前に歩いたときは大ノマ乗越から下ったが、今は廃道に近く、槍平を経由して、小池新道を歩くようになっていた。槍平の池に映った槍穂の姿は一級の眺めで、計画変更も悪くなかった。



台高山脈 (2011. 05. 07)


高見山=明神平=池木屋山=馬の鞍峰=大台ヶ原山という台高山脈の縦走を計画した。2日目は明神平から霧の平という予定だったが、下調べがしっかりしていなかったので、霧の平を見つけられず、引き返して一つ手前のコルでテントを張った。翌朝、20分ほどの所に霧の平という標識があった。明神平のような広い平を予想していたが、単なる狭いコルだった。霧の平から馬の鞍峰までの道は大変だった。ほんの1 km程度の距離を1時間半もかかった。ルートがはっきりせず、多少の道迷いもあったし、道自体も厳しかったが、他の人の記録に比べて時間がかかり過ぎている。とても縦走を貫徹できそうにないと諦める。馬の鞍峰から西に下りるのが最後のエスケープルートなので、三之公のカクシ平、明神滝などを見ながら下る。三之公川の広い河原にテントを張り、最後の夜を過ごした。



小辺路 (2013. 01. 17)


高野山=水ヶ峰=大股=伯母子岳=川津という小辺路縦走を考えた。伯母子岳から先は色々の選択肢があるので、着いてから考えることにしていた。計画倒れになったのは、天候のせいでもなく、体力不足のためでもなく、非常に単純なミスが原因だった。除雪された高野龍神スカイラインを歩いてきて、左の写真の平辻という標識のところに出た。隠れている標識の裏に大股というサインがあったのだろうが、じっくりと見ることをせず、雪のない車道を歩き続けてしまった。そのあとも車道をキープしておれば大股に行けたのだが、車道から離れて山道に進んでしまった。山道は南に進み大股の方角なのに、車道は西に向かっていたためだ。結果としてその山道はそののちどんどんと東に進み、大股から外れて行った。途中の車道で一泊したのち、北俣川に沿って北上し、陣ヶ峰の近くの道路脇でもう一泊したのち高野山に舞い戻るというお粗末な山行となった。



法皇山脈八巻山から (2012. 04 .23)


峨蔵越=エビラ山=東赤石山=西赤石山=銅山越=別子支所というコースで四国の法皇山系を歩く計画を立てた。初日にテントを張った蛾蔵越という峠は狭いが、水場からわずか数分という絶好の所にあった。翌日は、二ツ岳、イワカガミ岳、エビラ山、 黒岳、権現山といくつものピークを越える。権現越の少し先で、東赤石山への道と直接赤石山荘へ行く道が分岐する。その時点で16時40分となっていたので、頂上は翌日に持ち越すことにする。巻き道も結構の時間がかかり、誰もいない山荘についたのは18時を超えていた。東赤石山を翌日にしたので、予定のコースを歩くことができなくなり、石室越から瀬場谷を下りてバスを捕まえることにした。左の写真は、八巻山から行けなかった西赤石山(左のピラミッド)と物住頭(右手前のピラミッド)を見たもの。山はもちろんだが、別子銅山の跡を見逃したのは残念だった。




トップページへ  地域別索引へ  年次別索引へ  
忘れ難い山行へ  マニアックな山行へ